ワン・グリーンこそ良いコースの条件
金田 武明
(スポーツ・イラストレイテッド誌アジア代表)
戦略型コース・オーガスタ
ボビー・ジョーンズがグランドスラムを完遂した1930年(昭和5年)はアメリカのスポーツ黄金時代のピークだった。
ジョーンズはアマチュアゴルファーの理想的な存在だったが、28歳という若さであっさりと現役から退いてしまった。そして故郷ジョージア州に本格的なコースの建設を実現しようとした。
ジョーンズは、ゴルフコースは、従来のように技術のテストだけではなく、頭脳的プレーを可能にすべきだという考え方だった。
上級者ばかりでなく、アベレージゴルファーも腕前に応じて楽しめるコースという考え方も、当時としては、全くユニークだった。
ジョーンズは自分の夢の実現のためにコルトの弟子だったアリステア・マッケンジー博士を選んだ。ジョーンズはかねてから、カリフォルニアのサイプレス・ポイントという新設コースに、感銘していた。そして、そのユニークなコースのデザイナー、マッケンジー博士に魅了されていたのである。
ジョーンズの卓越したコース分析力とマッケンジーのユニークなデザインコンセプトが見事に結晶し、オーガスタ・ナショナルが生まれたのである。スコットランドの名ホールの戦略性が、ものの見事に抽出され、美化されて、オーガスタに花咲いたといってよいだろう。
今見ても、ダイナミックなスケールの大きなコースに驚かされるが、それを1932年に完成しているのである。スチールシャフトが、ようやく世界的に認められるようになった時代のことである。もちろん、ジョーンズもスチールシャフトでボールを打ってはいただろうが、その先見性は超人的だったのだろう。
セント・アンドルーズ オールド・コース No.2
米国の新しいコース造り
1935年から50年までは、世界で唯一の豊かな米国でさえゴルフコース不作の時期だった。本格的な、歴史に残るようなものはなかった。
世界に秩序が戻り、新しいコース造りが始まるのは、一九五三年だった。戦前の蓄積が、漸くこの時期に花咲かせるようになる。球聖ボビー・ジョーンズと、設計家ボビー・トレント・ジョーンズの二人がジョージア州のピーチトリーを造成した。二人のアメリカ人が、スコットランドの名ホールを十二分に理解し、その上に、米国における要求に応え、かつ科学技術を駆使してのコース造りだった。
ジョーンズは、設計家ジョーンズを得て、戦後のアメリカ式な近代コースを実現させた。ゴルファー数の激増、頻度の上昇という問題を解決するためには、大きなグリーンが解答となった。しかし、ただ大きいだけでは、ゴルフは面白くない。そこで、新しい考え方“蓮の葉”が生まれたのである。直径5~8メートルの蓮の葉が、4枚から6枚グリーンに浮いていると思えばよい。各々の蓮の葉は、高さ50センチから1メートル50と、高低がある。そして、これらの蓮の葉をなだらかな傾斜面で結ぶと、変化の多いグリーンになる。
上級者にとって、目標は、旗の立っている一枚の蓮の葉になる。狙い通りに打てれば、直球に近いパットが残るから、バーディーチャンスである。グリーン全体は、大きいが、狙うグリーンは、直径5~8メートルの小さなテーブルとなる訳である。アビレッジゴルファーにとっては、蓮の葉は、グリーンにのってから第1パットで狙うことになる。ただし、グリーンへのショットでは、従来のグリーンよりも安心して打てるし、のせるだけで楽になる。
この大型新グリーンの考え方は、戦後の相模原で実現された。故小寺酉二氏の設計で、私たちは、大きいグリーンでの3パットに抗議したものである。小寺さんは、「グリーンに旗がさしてあるんだから、傍へ持って行きゃいいんだよ。グリーンが大きく見えるのは、距離の判断が悪いだけのことさ」と、とり合って下さらなかった。確かに、小寺さんの言われる通りなのだが、今にして思うと、あの相模原の大グリーンに一つの問題があった。高麗芝での大グリーンが、決定的に至難のことだったと思う。
米国で、大グリーンが成功したのは、スピードの出るベントグラスに恵まれたからで、グリーンが遅かったら、絶対に受け容れられなかっただろう。
ペブル・ビーチ No.7
便宜上のツー・グリーンが……
ここで、新型グリーンと、わが国のツー・グリーンに触れねばなるまい。ツー・グリーンは、ちょうどピーチトリーゴルフクラブが造成された時代に、日本で生まれた考え方である。新型グリーンを造らずにツー・グリーンを便宜上、造った知恵は、日本人ならではのことだった。研究費もかからず、新しい芝を考え出す必要もない。冬枯れした高麗グリーンの横へ、安直にベントグリーンを造成するだけのことだ。
なぜ日本に本格的な新型ワン・グリーンのコースが生まれなかったのだろうか。日本プロのスイングは、戦後大きく変わり始め、現在では、9割は、アメリカ打法になっている。ボブ・トスキを紹介した時期には、日本打法、アメリカ打法といった議論があった。しかし、実際には、日本のトーナメントプロは、20年も前から大変革をとげていた。教え方だけが、いつまでも日本式を固守する人がいただけの話だった。
トーナメントプロは、良いものを吸収し、変化しなければ稼げない。第一線から脱落する。教える方は、いくら旧態依然とした方法でも、日本語の壁に守られて安泰だから、進歩がなかったと見ることができる。トーナメントプロは、海外との交流も十分にあり、新しい技術が、日本に入り続けたのである。コース造成は、レッスンと同様、海外との交流が極端に少ない。だから、世界に通用するものが、なかなか生めないのは当然である。
日本のコース造成が、世界的に見て、時代おくれになった理由は、こうした体質のせいだった。
何故、日本でワン・グリーンが造られなかったのだろうか。それほど難題なのかといえば全くそうではないのである。
オーガスタ No.13
日本と米国では、気候、風土が異なる
この説に反対しようはない。しかし、実際には、日本も米国も南北に長く、気温、土質何をとっても、全く同じ場所は、どこにも存在しないのである。極端にいえば、一ホールごとに、条件は同じであり得ない。日本だけが、高温、高湿の夏を迎え、酷寒の冬を経験するような議論が、かなり、まじめに討議される。こうした気象条件は、数字にはっきりと示されるから、普通に考えれば議論の余地もないことだ。こうした無駄な時間を経て、漸く次のトピックへ移る。
オーガスタ No.13
ゴルフコース使用頻度の違い
日本は人数が多い。一日30人や50人で経営するアメリカとは違う。これには、米国側は驚かされる。確かに、超一流コースでは、一日30人というクラブもあるが、数が多いので有名なのが、米国のコースだからだ。
例えばロスアンジェルスのランチョパークでは、年間11万~12万ラウンドである。朝、夜が明けてから、夕方、太陽がどっぷりと沈むまで、間断なくプレーしているところもある。実は、日本では土主体のグリーンだから、人間の重みに耐えられないのだという、専門的な話に戻って行く。新型ワングリーンは、砂主体(砂とピートモス)であり、クッションが利くので、その心配はしないでよい。もっとも、土と砂の違いをすぐ納得する人間は、どこでも少ない。黒土は、人間に農作物という恩恵を与える永い歴史をもっている。農作物に、黒土がよいからといって、芝生にもよいとはいえない。これを納得するのは難しい。黒土は、グリーンにとって最も望ましくない性質をもっているという。とくに保水性がよいことがいけないのだ。暑い日に、水をまくと、その水を大切に保ってしまう。そこで、湯になり、根が枯れる。高麗は生きるが、ベントは病気になってしまう。
ゴルファーにとっての差は、グリーンの固さが、砂主体だと一定し、土主体だと不安定になるところが大切だ。新型グリーンだと、大きなショットは同じようにスピンがかかって止まり、パットはビリヤード台の上のように速く走る。
米国農業技術のノウハウが入り、日本の維持管理ができたら、世界のどの国とも比較できぬほど優秀なものになるだろう。そして、次のステップとしては、日本独特のコース造りのノウハウが、はじめて、世界のゴルフ界に貢献する可能性が出て来る。ふり返ると、この30年は、長い時間だった。
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箪者紹介
金田武明(かねだ・たけあき)氏 -
昭和6年東京生まれ。早稲田大学卒。その後オハイオ州立大学〜メリーランド大学研究室を歴て一九五六年に帰国。タイム社スポーツ・イラストレイテッド誌アジア代表。
著者・訳書も多く「ビッグ3のプロ根性」「近代ゴルフの心と技術」「現代ゴルフの概念と実戦」などがあり、とくに「アメリカ打法」は、プロ・アマ問わず、日本におけるゴルフのスウィング論に決定的な影響を与えた。また、コースの変遷をはじめ、ゴルフの歴史の造詣も深い。
相模カンツリー倶楽部、霞ヶ関カンツリー倶楽部、オーク・ヒルズカントリークラブ会員。